ケータイ小説考(6/9)

今月の「ダ・ヴィンチ」第二特集は「ケータイ小説ってどうなの?」でしたが
みなさん、読まれましたか?
一般文芸とケータイ小説の間にある溝を浮き彫りにした形だったと思いますが……
果たしてそれでいいのか!
いや、編集方針に文句をつけたいのではなく
(連載持ってるのに編集部に文句つける度胸はないっす)、
その「溝」の存在自体に異を唱えたいんです。
この特集のみならず、一般文芸に近いところで
ケータイ小説への言及がなされる場合、
その主旨はほとんどが「こんなものを『小説』として読んじゃってる
最近の若者はどうかしてるぜ!」的になってると思います。
こうしてばんばんケータイ小説が出版されるようになる前、
「純愛小説」ブームの時既にそういうことは言われてたよね。
でもそうやってさっ、「普通の小説を読めない君たちが悪い!」みたいなスタンスを
文芸界の人たちが続けたとこで、問題は一切解決しないよね?
溝は深まっていくばかりですよ。
ケータイ小説と一般文芸の間で、お互いに「お前らの小説は読めねーぜ!」
ってことになるだけじゃん。
これは文芸の中だけの問題じゃないと思うよ。
二者間で書き言葉が通じなくなった時が
日本に格差社会が固定される時、なんじゃないの?
文字を読む、っていうのは
直接接する機会のない相手から学ぶ、ってことでしょ。
もし日本の書き言葉がふたつに分かれた場合、
ケータイ語文化のもとで生まれた子どもは
「もとの書き言葉」文化のものを学べないってことに、なんない?
そしてそれは経済格差に直結するだろ。
って話がデカすぎ? そして考え過ぎ?
私ごときが言うことじゃないような……。
しかしとにかく、私は「溝」を放置する気はない! ってことだ!
気持ち的にもやだもん、そんなの。
というわけで、某大手サイト(プロが書くんじゃなく投稿式のとこ)にアクセスして、
ひるまずにケータイ小説を読んでみました。
一読した感想は、やっぱり「やばい……」でしたが。
ほ、本当に生理的に読めない……!
でも3時間くらいで慣れた。
1に、「慣れ」が重要です。無駄な行間や語彙の少なさに
拒否反応が出そうでも、我慢して読みましょう。(誰に言ってるんだ)
2に、これ大事なんだけど、感覚として「友だち探し」で行けばわかる感じがする!
ランキング上位には、今書店に並んでる感じの
過激な事件が起こりまくる「何? 異次元……?」な小説が揃ってるわけですが、
もうちょっと下に行って探すと、なんとなく合いそうな小説があったりします。
そういうのに当たると、結構さくさく読めてしまう。
10ページくらいで、もう友だちの話を聞いてる気になって
「それでそれで?」「どーなんの?」って感じになります。
「友だちの話」だから、表現に工夫がなくても構わない。
あー……これにハマる気持ちもわかるかも、と思いました。
で、ハマる気持ちがわかったとこで、改めて「溝」の問題を考えると。
この溝はもー埋まらん!
こういう形式の小説(ケータイ小説)にハマっちゃったら、
どこの誰ともしれない遠い遠い書き手(しかもなんか偉そうな人)の書く
一般文芸なぞ読む気にならんよ……。
もう縦書きか横書きかで判断して、縦書きの本は買わなそう!
どうやったら横書きっ子と縦書きっ子が同じ本を読めるのか、
同じ情報をわかちあえるのか……
無理やり考えて出した結論は「バイリンガルが登場すればいい」です。
つまりアレだよ、「一般文芸語」「ケータイ語」の二語で本を出版すればいいわけだよ!
前者は技巧を凝らした文章、後者はト書きと台詞しかない文章、
しかし最終的に伝わるものは同じー、みたいな!
あったまいいいい!
え? そんなことできんのかって?
さあ……文芸界で天才とか言われてる人たちがやればいいんじゃない?
でもそういう人たちは、言語表現をいかに駆使して物語を書くか、ってことに
頭使ってるから、ボキャブラリーが制限される「ケータイ形式」で
小説を書く意味なんて1ミリもない、って思うのかもね。
つか、ほとんどの作家はそうか。別に情報伝達のために小説書いてるわけじゃないか。
……。
でもこのままじゃやっぱ嫌だよおお!(だだっこ)
誰かチャレンジしろよおお!
私? 無理!
無理難題だからこそ高レベルの作家がチャレンジするべきだと思う!