続『忘れられた日本人』の感想もしくは私の人生の行く末(8/3)

嘘ですおわりじゃないです。
宮本常一『忘れられた日本人』に関する雑感はまだ続きます。
部分読みなのに。エロい部分の拾い読みなのにこのダダ長い感想。
感想文でこういうことしちゃだめなんだよみんな。


そもそも何故私が『忘られた日本人』をすすめてもらったのか? というと、
「いつか人の話を聞くような仕事がしたい かも?」
「でもそれは 有名人にインタビューとか 傷ついた人のカウンセリングとか
 そういうんじゃなくて 普通の人の人生がわかる話の収集みたいな感じ」
と担当さんにこぼしてしまったからなのです。
「それは『忘れられた日本人』みたいなもの??」→「なんですかそれ??」
という流れで。紹介していただきました。
上の希望は、今すぐしたい! ということではないのですが
漠然と望んでる レベルのことでした。
このブログ記事をすごーいさかのぼって大学の卒業旅行の話
廃止される予定の寝台列車で、向かい合った男性の
「なんで今この列車に乗っているか」話を聞いた経験を残してあるんですけど。
あれ結構、面白かったんです。
私は人見知りで話下手っていう自覚で生きてきたのですが
喋るきっかけみたいなものがあって 人の話を聞くと 面白い。とわかりました。
もっとさかのぼると、私はすぐ「となりの席になった男子」を好きになる性質があって、
喋ってわかると……面白い!!! みたいのが。
あったんですよ。上手く言えませんけど。
自分と違う性質のものを手渡される時に脳がキラキラする!! 気がするんです昔から。
まっ滅多に手渡してもらえないけど……。
あと、私の小説&このブログを長く読んでくれた方(そして友人の皆様)には、
私が超〜俺様、ほんとは超〜ナルシストっていうのも、バレてると思うけど。
そういう「自分スキー」だからこそ、対岸が輝くというか……。
自分という個人にかかりっきりの人生だけど
だからこそ「他者」が見えた時に「すごいー すーーーごーーーいーーー!」てなる的な。

でも、じゃあ「私は他人に話を聞く仕事をしたいです!」って公言すればOKかっていうと
そんなことでもないと思うんです。
それでまわってくる仕事って、結局「個人」じゃなくて
「組織」のいとなみに使われるっていうか。
インタビュアーは、「相手の個人的な話をもらう」っていう仕事ではないんです。
本質的に。
それは私が、インタビューされた経験が多少なりともあるから感じることです。
インタビュアーは、「すーーごーーーいーーー!」って思う人に話を聞きにいくんじゃない。
相手が「発信したい」物事
(そして自分サイドの組織にも何らかの形で役に立つこと)を文字化すること
が 本質的な「仕事内容」です。
今のメディアの中で、役に立つ、お金を回す、そういう話を聞いてこなければいけないし
そうじゃない話だったら聞く必要がありません。
「話」はメディアに属します。相手と自分の間に成立するんじゃないです。
となりの席の男子がキラキラしたからってお金が発生するわけじゃないです。
もちろん、キラキラしたほうが嬉しいけど。
メディアと自分の価値観が一致しているかどうか? が一番問題になってくるんです。
正直、「どのメディアとも価値観一致する!」なんて自信はないです
合わせるほどの度量もないです。
今まで、わずかにさせていただいた書き起こしの仕事が
心から楽しくできたのは、そこが一致していたからだと思います(多分)。
ぶっちゃけ……芸能とか音楽とか経済とか、別分野で
人の話を聞いてる自分とか、全然想像できません。
資料を読んで主旨をつかんでまとめて、さらに自分が書く記事に必要な情報を……
とかって。?? それもーキラキラと関係ないし。と思ってしまう。
それって、結局、相手の利益……どころか、
依頼元の出版社と、芸能事務所とかの利益にしかなんないじゃん? みたいな。
あと、そういう業界で「インタビュー慣れ」してる人たちから
自分の心が躍るような情報を引き出せるかどうか? みたいなトーク力まで
問われるとぶっちゃけ完全についていけません的な感じになってくるし。
100万部売りたいとか、そういうことじゃないんだよお……
って結局。なるわな。
だから、「話を聞きたい」っていうのが実際どこまで行くのか。
「お前はどこまでやる気があるんだよ?」って問われたら
「わかりません……」みたいな返答しか。できないよね……。
あとはぶっちゃけ、私は企業>個人では生きてかない。って
いうのがもう決定事項ですから。
やる気を出すってことと隷属するってことは別次元だって
自分の中で動かさないこととして決めているし、
それが正しいとか正しくないとかより
もうこういう、「くせ者」としての人生みたいのが
社会全体の中で自分の担う役割なんじゃないかなって開き直ってきているから。
それでいきだおれようとも、役割は果たした私は間接的に世の中に貢献した!
って厚顔にも言い切れますから(我ながらパネエ図太さ)。

この話はいつになったら宮本常一のところに戻ってくるんだろうか??
そろそろ戻したいと思いますが……
『忘れられた日本人』を読むにあたって、そういう
話を聞く人間としての先達?? への目線みたいのもありました。
エロだけじゃなくて。
ただし前情報はなんにもなしで読んだので(著者がどういう肩書きの人間であるか、
この本が経歴上のいつ書かれたものであるかなど)、
この宮本常一って人は何をしたんだろうか?
何を「仕事」にしたんだろうか? ってとこからまずは入りました。
結果上、経歴上は「学者」ですこの人は。
放浪の旅人、未知の土地でジモティーと交われる伝説のフィールドワーカー
みたいな感じの目線でとらえてる読者さんもいらっしゃるようでしたが
フットワークが軽いとかトーク力あるとか そういうとこに
この人のほんとの実力があるのではない と感じました。
戦後私は郷里へかえって百姓になり、【昭和】二十七年まで、家に居ることが多かった。
それまでも田植・稲刈・みかんとり【の時期】には
かえって【=一時帰省して】家の仕事をしていた。
そういう事から農業技術へは深い関心ももち、私も百姓としては
人なみ以上の技術をもっているつもりである。
それで戦後は農閑期に戦前に旅して世話になった仲間のところをあるいて、
農業技術の伝達係をした。そのかたわら農村調査をした。

これは「あとがき」からの引用です(【】内は私の補足)。
ここを読んだとき、なんともいえない「これだ……」感がありました。
なんで田舎の人たちが 宮本氏にはあけすけに喋ってくれるのか。
西日本、東日本の違いあれど、私は本文を読んだ時に
田舎の人間が理由無しにこんなに余所者に喋るわけない、って
単に自分の体感から思っていました。
情報交換が(前提とは言わずとも)きっかけとしてあるから。喋るんだよね。
後年は、個人の調査じゃなくて、林野庁からの学者さんとかとしても
働いたそうですけれども。
それでも、「話してみたらまるきりの『学者さん』でない」てことは重要ですよね。
もちろん「喋ってくれるかどうか」っていう表層の問題だけじゃなく、
彼が「百姓」であることは、何かを発見することへのまなざし、
疑問の持ち方へも大きく貢献していたと思います。
自分が「百姓」だから「ん?」って気が付くこともあるし。
「この村のなりたちはなんだか自分のところと違うな」って思うところもあるだろうし。
それに近いようなことは、上の引用部に続く部分で宮本氏自身も語っています。
しかも〜、この人はフィールドワークだけじゃなくて、文献もしっかり追った人!
目的の村につくと、まずひとまわり自分の目で観察→役場や農協に残ってる文書を調査→
旧家の古文書なども存在がわかれば調査→そして最後にトーク!!
っていう手順で調査をすすめていたことが、同じくあとがきに於いて明かされています。
つまり理系で文系で人ウケもばつぐんっていう……
その上文才までバッチリ☆ ってぇ……
ぶっちゃけ100年は現れない大器
後継なき奇跡の天才

って印象を。私は受けました。
(どの業界にも「後継なき……」はいるんだよね。。。
 ちなみに学者としての宮本常一氏は、民俗学の大家・柳田國男氏と
 異なるアプローチをとったために冷遇された、
 民俗学界内でちゃんと評価され始めたのはわりと最近。という話もネットでは見ました。)
そんなの私無理。
ジャンル違っても無理。
って当然すぐ思うわけですが。
しかしそれでも、宮本氏が活躍していた場が(たぶんおもに)
自分自身の出自と切り離せない「農村」であったこと、
ほんとに自分が「何?」って思うから動いていたことは
ヒントにしたほうがいいと思いました。
「市井の人に話を聞く」と言ったって、
市井ならどこでもよかったわけではない……。
エロ話とか色々聞いてるけど、すべて「農村社会の成り立ちや歴史」に
関係するから聞いてることで(関係してんだよ! 上の記事の書きぶりじゃ伝わらないけどw)
他人の話ならなんでも採集しているわけではない。。。
他に「なんとなく」レベルで感じたこととして、
宮本氏の目線は私と違って、あくまで「社会」に向いていただろう、というものがあります。
いろんな人と喋ってるっていっても。基本は村をとらえて。いる……。
(拾い読みで)一番私の琴線にふれたものは「土佐源氏」という
個人史に近い一編だったわけだけれども、
それにすら、語り手のじいさんが入れなかった「村」の存在が色濃く出ています。
孤児同然の境遇に生まれ、村社会に入らずやくざものとして暮らし、
村の若衆が夜這いに行くような「娘」(未婚の女性ということだよね)には
手をつけなかった。そんなことしたら若衆にぼっこぼこにされるから。という話も出てきます。
やくざものの相手と成り得るのは後家さんだけ。
その後家さん及び、心理的後家さんにも近いエラい人の奥さんの、
村社会では満たされないさみしさを拾っていくから
語り手のじいさんのムチャクチャな行為にも奥行きが出ているんだよね。
村と、それに相対する個人……浮いた個人、馴染めなかった個人
(別の話では、馴染んだ個人、村のためにある個人)
という存在として。人をとらえているんじゃないかな……。
組織の中の人間という目線が欠けている
(そういうのを気にする理由がなかった)私とは、決定的に違うところがある。
えーじゃあ私が人に聞けることってなんだろ???
と考えると……。
恋バナだな。
今この記事の格がいっきに落ちました。信憑性が薄くなりました。
しかし敢えて書いてみる。
恋バナだな!!!!!

私の中で、死ぬほどナチュラルにそれを求めてきたよ! っていうものは
恋バナ以外ないな。
自分が小さいとき、女子として認めてもらえなくて、恋バナできなかったから……
めっちゃかなしかったから……
今年の5月半ばからずっとロー入っていたけど
それのきっかけってそもそもは、些細なことで小学生時代の
そのブルーな気持ちを思い出したからなんだよね。
実は私少女まんがじゃなくて少年まんが育ちですねん。
小学生のほぼ大半「コロコロ」で過ごしたからりぼん派もなかよし派もくそもないねん。
みたいなことを他人に話しただけなんですけど。
えっほんとうに私まじで小学生の間じゅう少女まんが読めなかったん?
っていうことを後で思うともー泣きたくなってきて。
だってそれは、自分の気持ちじゃなくて、他人の目線を気にしていただけだったから。
男同然の私なんかがりぼんを手に取ってるところ見られたらマジきもいきもい言われる!
って思ってたのをまざまざと思い出して。
小学校6年くらいの時、となりのとなりのとなりのとなりの街の、
市街地と郊外の絶妙な中間に位置する、絶対同級生が来ない書店に行った時初めて
りぼんを買えたけど、それですら店員の目とか超絶気になって
「こいつ男子じゃん。変態じゃねえの?」とか思われないかとかめっちゃそわそわして……
うううううううもう無理泣けてくる。
それが杞憂とかじゃなくて今考えても結構まじでふつうの心配なのが
私にはわかるから泣けてくる(小学生時代の写真を見ると男子が写ってる。。。)。
そーゆーコンプレックスがある一方で、それに穢されない部分で
自分の中で絶対的な価値があったのも恋! と思います。。。
となりの席の男子とめっちゃ喋っているっていうのは
それはまあ相手以外にばれない恋だよ。
認められなくても……人に見えないところでなにかはかすめとっているよ。
(あっなんかこれ「土佐源氏」とどことなくつながってくな……
 ほんとはじいさんサイドに感情移入して読んでたのかな)

なんだろ、個人の魅力のひみつ……みたいのが知りたいのかも。
社会の中でどういうスタンスとかあんま関係なくて
(だから有名人にいっぱいインタビューしたいとかはない)
その人ぽい とか その人とその人だから惹かれ合うとか
さらなる化学反応が起きるとか
そういう話が好き
……なので少女まんが家さんへのインタビューや
少女まんがのレビューには250%やる気が起こって
(その話が絶対どこかに入るから)
現状、世間様への首がつながっている
……が他ジャンルの仕事の話とかぶっちゃけさほど興味ない。
恋バナと関係ある職種はやっぱ興味わくけど、
社長とかスポーツ選手とか。恋に関係ないと思う。
今気付いたけど、インタビューってほぼ……仕事の話じゃね???
仕事……?
仕事、恋バナに比べたらさほどきょうみねえわ
うわああああああああああ
それ「インタビュアー」なったらダメなパターンじゃんよおおおおお!!!
気付いてよかった!

つながった……!? ぽくない?!!!!!
え?
じんせいが?
輪っぽく?
あれ、つながってないか??
なぜならこの話に、私が創作する必然性とかは全然出てこないから???
……今人生のゆくさきに抵触するレベルのやばいこと言いましたかね。
こんだけべらべら喋って、私の仕事の先結局全然見えてないし。
民俗学にフィールドワーカーはいても恋愛にフィールドワーカーはいないし。
そんなのつとまらないし。。。
でも宮本常一氏という人をわずかに知って
すごいたくさんのことに気付いた 今日だったのです。
人の在り方には be と stand と両側面があるよね?
(私の、中学レベルの怪しい英語で選んだこの語のニュアンスが
 合ってるか自信ないけど……。)
状況や社会によって選び選ばれる stand と
どーしようもなく在るだけの be と。
私は必ず be を採り、他人の姿にもそれを探そうとするけども、
stand に光を当てるやりかたも あるんだろうの。。。。と。
逆に言えば stand に興味ないってのがマジで私の人生なんだろうの。。。って。
(古老風に語っています)
普通の人がどっかで必ず引っかかるであろう stand 的な在り方から
運だけで逃がしてもらえてるっていう自覚はあるんで。。。
「逃がしてもらえてる」のか「そこには永遠にさわれない」のかは微妙なところだけど、
もうこれを活かしていく以外にはないだろ全体的に。とは思っている。
思っているけど……!

まだまだ喋れるわ。。。
なんかもうこれ以上は余談に過ぎるけれども
私のこの「読書の感想」が先月さりげなくくさした斉藤孝先生の感想文の書き方寄り
っていうツッコミは受け付けます。自分でも気付いてます……。
感想は結構自由に書いてもいいんだな。
主旨というか、大事なところはその人のとりようって部分もあるかもな。って思ってます。
ただこの『忘れられた日本人』を高校生にすすめるのはどうだろうか。
いやほんとまじでどうなんだろうか。